宿舎の寝台で、私は目を覚ました。小さな衣装箪笥の上の置き時計に目をやれば、時刻は午前四時。窓の外は僅かに明るくなり始めていた。  隣には私のものではない人肌の温もり。珍しく浩子──僚機(ペア)の沖浦浩子飛曹長──よりも早く目が覚めたのかと思ったら、そうではなかった。そこにあったのは昨日初めて会ったばかりの、野中靖子少尉のあどけない寝顔。  私は彼女を起こさないようにゆっくりと上半身を起こすと、わずかに寝ぐせの付いたその前髪にそっと触れる。  人の気配に振り向けば、表面に水滴の浮かぶ金属製の水差しと、湯呑を三つ持った浩子が音もなく扉を開けて部屋に入って来るところだった。いつの間に身支度をしたのか、顎の線で切りそろえられた髪には寝ぐせ一つなく、曹長の階級章と航空歩兵の兵科章が袖に縫い付けられたセーラー服にも不用意なしわなど見当たらない。私よりも二つ下の十五歳なのに、下士官としてかくあるべき姿を実現している。父親よりも年上である私の飛行脚の機付長に言わせれば、浩子はまさに下士官になるべくしてなったのだとか。 「おはよ、浩子」 「おはようございます、中尉」  お互いに小声で挨拶。 「さすがにそろそろ起きていただきますか?」  小首をかしげながら、浩子が聞いてくるのに、そうだねと答え、私はほのかに赤みのさす野中少尉のほほを右手の人差指で軽くつつく。  ひゃう。  かわいらしい悲鳴とともに、彼女の瞼がぱちりと開く。 「おはよう」  扶桑の人間にしては浅い色の瞳に、挨拶の声をかける。 「あ、お、おはようございます! 山岡中尉!」  彼女は毛布をはねのけるようにして起き上がった。寝間着の前がわずかにはだけ、尋常小学校を出たばかりの十二歳だという細い身体がのぞいていた。口の中に僅かに苦いものを感じながら、私は聞く。 「体の調子はどう? 熱があったり、おなか痛かったりとかは」 「いえ! 全然元気です!」  本当に元気そうな彼女の声に、私と浩子はお互いに目くばせを交わす。 「そう」 「本当に、大丈夫です。ちゃんと飛べます」  寝台の上にちょこんと正座した野中少尉の、まっすぐな瞳が私を見つめていた。 「じゃあ着替えて、朝ごはんに行きましょう」  せめてその瞳から目をそらさないように。私は努めて普段どおりに、そう返した。 ■  朝食をとりながら小隊単位での打ち合わせをこなし、慌ただしく飛行脚と装具を付ける。そうして出撃準備を終えた私たちは目を覚ましておよそ二時間後には滑走路上にいた。  ずらりとそろった海軍第721航空隊(私たちは単に721空と呼ぶ)の航空歩兵たちの前に立つのは飛行隊長の町屋中佐。純白の二種制服に包まれたすらりとした身体のどこから出しているのか、良く通る声で出撃前の訓示を述べていた。  ただ、いつもならば時代劇に出てくる女博徒のような、はすっぱな話し方をするはずの中佐が、いつになく真面目な口調だった。その事実が何より胸に刺さった。  それもそのはずだ。  これから私たちが運ぶのはいつもの爆弾ではなく、今日初めて投入される新兵器だった。操縦者つきの爆弾とでも呼ぶべき特別攻撃飛行脚「桜花」をまだ「兵器」と呼んでもいいのなら。昨日初めて顔を合わせ、そのまま夜を共にした野中少尉はそのパイロットで、桜花と彼女を空中発進地点まで運ぶのが私たちの今日の任務だ。  彼女が履く桜花はその名の通り、かなり特別な飛行脚だ。エンジン内部の魔力増幅装置に制限機構がなく、一度それが起動すれば搭乗員の魔力を吸い尽くすまで(半ば暴走しつつ)作動する。装置の作動時間は約180秒と言われていた。そんなに急激に魔力を消耗したら良くて廃人、悪ければそれだけで死んでしまう。体当たり前提、文字通り「必死」の兵器である桜花だからこそ用いることの出来る悪魔的なエンジンだった。  そのエンジンでもって命を代償に爆発的な速度を稼ぎ出し、その速度とシールド、飛行脚に内蔵された爆弾で、コアを多重装甲で護る超大型ネウロイであっても一撃で撃破する。そういうことになっていた。  急造兵器だけに弱点も多い。その最大のものが航続力だった。「有効射程」にしておよそ三十キロ。そのため攻撃発起点まではなんらかの手段で輸送しなければならない。  そこで選ばれたのが爆弾などの運用に慣れた、私たち721空というわけだ。正直、良い迷惑だと思った。  制空部隊の航空歩兵と異なり、私たちの721空のような攻撃/爆撃を主とする部隊では多くの二人一組のペアを組み、二人がかりで攻撃を行う。重くても弾薬込みで三十キロを超えることはめったにない機関砲に比べて、爆弾や魚雷は数百キロから数トンの重さになることが珍しくないからだ。素質にすぐれた、魔力の大きな航空歩兵であれば大型爆弾も一人で運ぶこともできるというが、人並みのウィッチに過ぎない私たちは努力と運用の工夫で同じことをする他なかった。少なくとも721空において爆弾とは二人で運び、息を合わせてネウロイに投げつけるものだった。  そうであるから、私たちは状況が許す限りペアで一緒の時間を過ごした。もちろん、眠りにつく時も。少女同士のこととはいえ、基地内での同衾に眉をひそめる人もいたけれど、部隊の運営にかかわる大人たちはみな、それこそが私たちがネウロイとの戦いに耐えるために必要なことなのだと(半ば憐れみ混じりに)理解してくれていた。  訓示が終わった。管制所脇に「南無八幡大菩薩」と墨痕あらたかに大書された幟旗が立ち上がり、陣太鼓が打ち鳴らされる。まるでお芝居のようなこの合図こそが721空出撃の号令だ。居並ぶ航空歩兵が纏う飛行脚の魔導エンジンが、一斉に唸りを上げ始める。  気が付けば、基地の皆が私たちを見送るためにあちこちに立っていた。緑色の上着にネクタイを締める三種制服は基地司令部の人たち。煙管服は整備のみんな。割烹着姿の食堂のおばちゃんたちまで表に出ている。  定刻通りに町屋中佐のペアが、二人の間にもう一人の少女を抱くようにして、空へと舞い上がった。それに続き次々に飛行場を離れていく航空歩兵たち。どのペアも、けが人に肩を貸すような姿勢で、一人の少女を抱いている。見送る人々の手で、帽子が何度となく打ち振られる。  離陸の順番が来た。三人で横に並び、中央の野中少尉に肩を貸すような姿勢を取る。少尉の額に巻かれた鉢巻きに記された「神風」の文字の勇ましさと、幼さの残る表情の落差が胸に痛い。 「せぇの」  いつもと少し勝手の異なる体勢。小さな合図と共に、私たちはゆっくりと空へと歩みを進める。  目標は、空中を進撃中の敵ネウロイ大編隊。納得なんてできないけれど、私たち以外にそれを止められないというのなら、やるしかない。 ■  陸地が見えなくなる前に機関銃や機関砲を構えた護衛の航空歩兵たちが合流してくれた。今次の戦いの開戦以来の名機である零式と、局地戦闘脚「紫電」の混合部隊だった。零式はともかく、紫電は航続距離を犠牲にしてその分の余力を防御と最高速度に振った飛行脚のはずだった。 「紫電ですか」  同じ疑問を持ったのか、およそ五百メートルほど上空に陣取った護衛部隊をチラと見遣った浩子が呟く。 「片道飛行は覚悟の上かも知れない」  私は静かに返す。 「なんだか、責任重大ですね」  それまで黙っていた野中少尉が、私たちの肩に支えられた姿勢から言う。 「期待されるのは苦手?」 「……あんまり、慣れてないんです。私、落ちこぼれだし」 「……うん」 「でも、昨日の夜は嬉しかったです。あんなにお菓子がいっぱい食べられて。優しくしてもらって」  桜花の搭乗員はそのほとんどが若年の航空歩兵丙種合格者から選抜されたのだという。後に資料で知ったところによれば、私たちが運んだこの桜花部隊では、その平均年齢は十三歳弱。少女ばかりの航空歩兵の平均よりなお若い。  昨晩、私はこの野中少尉にせめて最後に甘いものでもと思って酒保を訪れた。するといつもは渋チンの酒保の親父が、いきなり饅頭の包みを差し出して来た。金はいらん、いいから持ってけ。そう言われた。見れば、カウンターの後ろには私が受け取ったのと同じ包みがもういくつか用意されていた。食べるのは私と浩子と彼女の三人。晩ご飯の後だし食べきれないと思って、寄り道をして格納庫にお裾分けに行ったら、逆に機付長からミカンをもらってしまった。その他にもあれやこれや。みんな、どこに隠し持っていたんだろうというほど色々なものをくれた。  あまりに若い桜花の搭乗員たちを前に、みんな同じようなことを考えていたのだ。  結局、両手で抱えるほどのお菓子やら果物やらを手に部屋に帰った。薬缶に番茶を沸かして、三人でおしゃべりをしながらそれを食べ散らかした。海軍に入ってからはもちろんのこと、入る前にだってしたことがないような贅沢だった。楽しいフリだけのつもりが、本当に楽しくなってしまったことがちょっと申し訳なかった。 ■ 『警戒! 正面方向より敵機!』  不意に受令器から緊張した声が流れる。あまり聞き覚えのない声だった。護衛隊の誰かのものだろう。間もなく護衛隊のおよそ半数が速力を上げて先行する態勢になる。 「ちょっと荒っぽくなるかもしれない。しっかり捕まって」  護衛隊の進行方向に視線を向けたまま言うと、私の右肩に回されていた小さな手に、きゅ、と力が込められたのが分かった。  今の私たちにはネウロイの迎撃を受けたとしても、シールドを展開して受け流す意外に出来ることは、避けることくらいだ。腰のホルスターには自衛用に支給されているモ式大型自動拳銃が入っているが、何の役にも立たないだろう。 「はじまった」  冷静な声は浩子のもの。進行方向で明らかに自然のものではない光が瞬き始めていた。  編隊長からは何も命令がない。このまま突き進めということだ。 「なんとも楽しくなって来たね」  つとめて明るく私は言う。  言いながら、飛行脚へ僅かに意識をやる。ギアとプロペラのピッチをわずかに変える。何も言わなくても浩子が同じことをしているのが分かる。魔力の消費効率は悪くなるが、急加速への備えだ。 『下からも来るぞ!』  受令器から再びの警告。くさび形に組まれた私たちの編隊。その進行方向左側に位置する第三小隊長の根岸大尉の声だった。  ぶん。何かを振り抜くような音とともに黒い影が高速で通り過ぎていく。ネウロイの護衛機(あるいはそう呼ぶべき何か)だ。 『千代! 京子!』  遅れてあがる悲鳴のような声は先頭を行く第一小隊からのものだ。早速ペアが一つ潰された。激しい舌打ちの音は浩子のものだろう。  ネウロイの迎撃機はもちろん単機ではなかった。瞬く間に私たちの編隊はその形を乱していく。 『目標ネウロイ群は正面! 各個に突撃せよ! まだちょいと距離はあるがお前らなら行ける!』  敵の迎撃機が編隊内部に突入したことで、当初想定していた同時攻撃を諦めた町屋中佐が突撃命令を怒鳴る。 「中尉、いざとなったら私を捨てて下さい」 「何言ってるの? きっちり最後まで送る。昨日の夜、そう約束したよ。今更捨てるくらいならその前に逃げてる」  何かに縋るような口調の野中少尉に、私はきっぱりと言い切る。その返事の語気に驚いた表情の少尉の向こうには、口元をわずかにゆがめた浩子の顔。 「そうです少尉。中尉と私を信じて下さい」 「ごめんなさい。ありがとうございます」 『山岡ぁ! 後ろぉ!』  誰かが警告を送ってくれた。  野中少尉の背中で組んだ手を使って、私たちは声に出さずにタイミングを取る。さん、にい、いち、ぜろ。二人の飛行脚の角度をずらして空中を滑り、そのまま斜め前に見えた雲の固まりに突入する。  それでも後方から撃ちかけられたネウロイの攻撃を全ては避けきれず、浩子の左脚の飛行脚の一部が削れている。  雲の中で姿勢を立て直す。 「浩子、大丈夫?」 「もちろん」 「靖子ちゃん、どうせなら大物いきたいよね!」 「ええ!」  二人に確かめれば、ハリのある返事が返って来た。大丈夫。行ける。私たちは行ける。 「雲が切れます!」  雲の向こうにいたのは、ネウロイの空中艦隊とでも言うべきもの。どんな理屈で空中に浮かんでいるのかまったく理解出来ないが、巨大な物体が全部で二十近く。  見とれる間もなく、その大艦隊から私たちに向けた対空砲火が火を吹きはじめる。さらに小型のネウロイが陸続とこちらへとやってくる。  ふと、視界の右隅にまばゆい光。どうやら桜花の空中発進が成功したらしい。瞬く間に大艦隊に接近したその輝きは駆逐艦ほどもあるネウロイの一つに見事に命中、消滅させた。 「一番槍、取られましたね」 「でも、大物はゆずりません」  冗談めかした浩子の声に、大真面目に答える少尉。そうこうしている間にも、私たちは無傷ではいられない。回避しきれず、シールドでも防げなかった攻撃による傷が、少しずつ増えていく。目標への距離と引き換えに。  そして、捉えた。  三人で小さく頷き合う。それを合図に、少尉の両肩の下から支えの腕をゆっくりと引き抜く。重力の法則に従いはじめる野中少尉の身体。 「お二人には、大変お世話になりました」 「どういたしまして」  最後にわずかだけ、指と指が絡み、す、と触れていた感覚が消える。 「じゃあ、行ってきます」  まるで近所へ買い物にでも行くかのような挨拶。一呼吸おいて、光芒が生まれる。 「ぶちかませっ、靖子っ」  私は思わず声を張り上げる。  光はこちらを振り返らない。赤い光線の雨を突っ切って、空中艦隊の中央に陣取る巨大ネウロイへと向かう。ひたすらに、まっすぐに。  ■  結局、桜花の実戦投入はこの一度きりで終わった。  戦果は上げたが、損害が甚大なものだったこと、まもなく連合からの援軍が到着したことが大きかったようだ。一つ救いがあるとすれば、この援軍が到着するまでの時間を稼ぎ出したという点で、桜花隊の攻撃が戦後にそれなりの評価を得られたことかもしれない。  戦闘詳報によれば、この作戦による戦果は撃墜確実が戦艦級ネウロイが一(野中少尉によるものだ。彼女は見事やりとげた)、駆逐艦級ネウロイが三。その他、小型ネウロイ多数。  護衛隊は二十名を出撃させて帰還は六名。その全員が何らかの傷を負っており、復帰不能と判断されたものは二名。  攻撃隊は桜花搭乗員を除いて二十二名が出撃、帰還は私を含めて七名。  桜花搭乗員は十一名が出撃し全滅。空中発進をできたものは六名だった。  後退中に受けた追撃により、浩子は還れなかった。私も重傷を負い、飛行資格の停止を言い渡された。  空を飛べなくなってまで海軍に残る理由はない。そう思った私は予備役に編入した。あれだけの経験をして今更女学校に戻る気もなかったから、川越の実家の近くに勤め先を見つけることが出来たのは幸いだった。  その仕事は、空を飛ぶこととそのための魔力と体力をつけることが何より大事だった海軍時代とはうってかわって、机に向かってのもの。  江戸時代の風情を残す町並みの中にある、欧風の石造りの建物。その中の静かな部屋で書類に向かって書き付けを行っていると何もかもが変わってしまったように思えるが、たまに聴こえるはずのない声が届く。 『じゃあ、行ってきます』  あの時の透明な笑顔と共に。